徳俵がズレている理由とは?

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大相撲、今も昔も人気ですよね。横綱の堂々とした貫禄、それに向かう大関や関脇たちも会場を大いに盛り上げてくれます。大きいから強いわけでもなく、やはり技や瞬発力、判断力なども関係してくるので、時には大番狂わせがあってこれがまた楽しい。

そしてルールもシンプル。丸いところから相手を出すか、転ぶなどして相手が足の裏以外を地面につけちゃったら勝ち!小さい子でも理解できるせいか、時に「相撲で勝負!」なんてことになったり、ちびっこ相撲大会が開かれたり、そして観ているほうも勝敗が単純明快。
地面に丸を書けばそこはもう「土俵」!一対一の真剣勝負の場になります。

さて、その土俵ですが、大相撲で使われる土俵、ただの丸ではなく、4か所出っ張っているところがあるのはご存知の方も多いはず。あの出っ張り、必要なのでしょうか。ただの丸じゃない理由は?

はじめに相撲と土俵の歴史


相撲の歴史は古代まで遡り、古事記には神様の対戦、日本書紀には初めての人間同士の対決が載っています。
垂仁天皇7年(紀元前23年)の7月7日 (旧暦)、力自慢の当麻蹴速に、垂仁天皇から対戦相手として出雲から呼びだされた野見宿禰という二人が対決したのが相撲の起源と言われ、野見宿禰と当麻蹴速は相撲の始祖として祀られていますが、この対戦は蹴り技OKのかなりハードな格闘技だったようです。

結果は野見宿禰の勝ち。野見宿禰は当麻蹴速の腰骨を折り、倒れた当麻蹴速をさらに踏んで腰骨を踏み折るという壮絶なもので、当麻蹴速は絶命し、野見宿禰は当麻蹴速の土地を手に入れたそうです。

もちろん、この時には土俵はなし。どうやら土俵ができたのはもっともっと後で、鎌倉時代に観衆などが輪になって作った「人方屋」が土俵の原型と言われているそうです(諸説あり)。平安時代中期くらいは宮中行事としてあった相撲(この時は蹴り技OKの荒々しい相撲ではありません。奈良時代くらいには蹴ったり殴ったりは反則というルールができていたようです)ですが、当然ながらまだ土俵はありませんでした。

この「土俵の原型」である人方屋ですが、なにせ輪が人間なので、贔屓の力士が不利になると手を出す人が出てきます。江戸時代になって相撲の興行が始まるとこれは大問題。そこで相撲を取る場所として四隅に柱を立てて縄を張り、観客席と区分けしました。
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この形そのままに俵で土俵を作ったため、俵を使った初期の土俵は勝敗ラインが四角なのだそうです。これは各地の古い神社などに残っている場所があるそうです。

元禄年間に、丸い土俵が作られるようになり享保の頃にやっと「円の外へ相手を出したら勝ち」というルールも加えられるようになってきたそうです。
その後の天明年間に、二重土俵というものが作られました。
・内側・・・13尺・16俵の俵で作った輪
・外側・・・15尺・20俵の俵で作った輪
が二重に埋められていました。今は内側が外され、15尺のみの一重です。

徳俵が持つ意味


「徳俵」とは、土俵の一部分のこと。土俵の円の四か所に、俵一つ分くらい外側にズレている場所があります。そこが「徳俵」という部分。
今でこそ大相撲は屋内で行い、地域の神社でも土俵の上は屋根付きなんてことが多いのですが、昔は、相撲は屋外競技でした。

相撲を取る場所を作るのが人間だったうちは考えもしなかったことが、俵を埋めて常設の土俵を作るようになって発生した問題があります。それが雨問題。輪の中に降った雨が溜まってしまうと相撲ができなくなってしまうのです。

そこで考えられたのがこの「徳俵」です。俵を4か所ずらして埋めることによって、土俵の中から少しでも早く雨水を出してしまおうという、徳俵はいわゆる「排水設備」でした。今は屋内競技なのでほぼ問題ないのですが、これはまた「昔の名残」という味のあるもの。

また、この俵のズレが、土俵際まで追い込まれた力士が俵ひとつ分だけ得をするという意味で、「徳俵」と呼ばれているといいます。

昔は実用的に必要不可欠だった徳俵。現在は力士がここで足を踏ん張って、以外にも逆転勝ち!なんてこともあったりする、相撲のアクセントになっています。次の大相撲は是非「徳俵際の攻防」も楽しんでみてください。

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